日本茶800年歴史散歩ストーリー

京都府南部の山城地域は、日本文化、特にその精神性を語る上で欠くことのできない「茶道」「茶の湯」の発展を、その萌芽期から茶葉の品質向上や生産拡大の面で支え、茶人や時々の権力者、町衆の支持を得て栽培や製茶技術の工夫・革新を繰り返し、日本茶を代表する「抹茶」「煎茶」「玉露」を生みだしている。この地は、日本の生活に根付いており、世界にも影響を与えている日本の喫茶文化をリードしてきた、まさに「日本茶のふるさと」と呼ぶに相応しい地であり、その足跡を順次たどり、見て、歩いて、味わうだけでなく、茶摘みや茶揉みの体験などを通じ、日本の文化を紹介することのできる格好の地と言えます。

宇治茶のはじまり

駒蹄影園跡碑
駒蹄影園跡碑

この地域は古くから貴族の別業の地として栄え、貴顕の嗜好に応えようとする風土と都との水運、川霧の立つ気候や土壌、植生などの好条件が備わっています。13世紀には栄西禅師が中国からもたらした茶の栽培方法を、明恵上人が宇治の里人に馬を使い教えたとされ、この本格的な宇治茶生産の始まりの地には、『駒蹄影園跡碑』が建っています。

宇治茶の確立と初期の景観~抹茶の誕生~

覆下栽培
覆下栽培

15世紀、宇治茶は足利将軍家の評価を勝ち取り「将軍が珍重されている茶」とされ、日本一の茶となりました。将軍家や管領家は宇治に特別の茶園「七名園」を設け、露地栽培による最高級の茶葉を作らせました。その茶園の一つ『奥ノ山茶園』は、室町時代からたゆむことなく茶を作り続けています。また、七名園の一つ朝日茶園跡には、日本の茶礼の基礎となった「永平清規」を著した道元禅師を開祖とする曹洞宗『興聖寺』が建立されています。

16世紀、宇治では千利休ら茶人の要望に応え、京都とのあいだにあった巨椋池に生育する葦で編んだ簀を茶畑に覆い掛け、渋みを押さえた茶葉・碾茶を作る覆下栽培が始まり、鮮やかで濃緑色のうまみの強い「抹茶」を誕生させました。宇治茶は天下人の織田信長、豊臣秀吉、徳川将軍家の庇護を受け茶産地の中でも特別な地位を有し、宇治茶ブランドを確立しました。宇治市『白川』では現在でも天然の葦を使った本簀栽培が行われています。この頃の様子は、イエズス会教会司祭であったジョアン・ロドリゲスの「日本協会史」(16世紀後半)により詳しく西洋に紹介されました。また、『中宇治地区』は江戸時代には幕府領であり、有力な宇治茶師の屋敷『上林春松家』をはじめ茶問屋街が形成されており、東端の『宇治川』に架かる日本最古の架橋『宇治橋』のたもとには、同じく最古の茶屋といわれ、狂言にも登場する『通圓茶屋』があり、現在も24代目の当主とお茶を味わうことができます。

煎茶・玉露の誕生と新しい景観

宗円生家
宗円生家

17世紀中期、『黄檗山萬福寺』を開いた隠元禅師が、乾燥した茶葉に湯を注いで飲む淹茶法を伝えたが、18世紀、永谷宗円はこれに着想を得、宇治田原町『湯屋谷』において新芽の茶葉を蒸し焙炉の上で手で揉み乾燥させるという日本固有の革新的製法である宇治製法(青製煎茶製法)をあみだし、色・香り・味ともに優れた緑茶である「煎茶」を誕生させました。煎茶は、現在我が国の流通量の約80%を占めるほど愛飲されています。この一大革新を生み出した『焙炉』は宇治田原町『湯屋谷』の『宗円生家』内に据えられており、近くには『茶宗明神社』が鎮座しています。煎茶普及による需要拡大に応えるため、和束町『湯船』『原山』などの山間部では農家の裏山の傾斜地をそのままに開墾し、中腹まで等高線状に茶畝を作る露地栽培が盛んになり、山なり茶園の景観がつくり出されました。

和束町原山の景観
和束町原山の景観

この地の革新を求める風土はさらなる上質な茶を追求し、覆下栽培と宇治茶製法を結びつけ、世界的な最高級緑茶である甘みとコクの豊かな「玉露」を生み出しました。この茶葉の栽培には砂地が向いており、まず木津川河川敷の八幡市と城陽市の『上津屋』、久御山町の『浜台』に浜茶として良質な茶園が広がりました。上津屋は木津川の右岸と左岸にあるにも関わらず、1889年までは上津屋村として一つの共同体であり、現在も長大な木製の流れ橋(上津屋橋)により密接なつながりを保っています。

流れ橋と浜茶
流れ橋と浜茶

また、木津川に隣接する京田辺市の小高い円錐台状の丘陵地『飯岡』では周囲に水田(覆材の稲藁)、裾野に覆下茶畑、竹林(覆下組立材)、上部に集落(茶農家)と展開する玉露生産の特徴的な景観が見られます。

宇治茶の近代景観

上狛の茶問屋の街並み
上狛の茶問屋の街並み

煎茶は明治期に生糸と並んで輸出需要が急増し、産地拡大の必要が生じ、南山城村『童仙房』では高い標高の開拓村が開かれ、斜面の茶畑と平地の水田とが対をなす独特の景観を生みました。また、木津川の水運の要となった木津川市『上狛』に、各地から茶葉が集まり、『茶問屋街』が形成され隆盛を極めました。20世紀以降、より大量の茶葉を生産するため、農家近くの山腹だけでなく、山頂まで「山なり開墾」されるようになり、天まで届くかのような独特の美しい横畝模様の茶畑景観が和束町『石寺』『撰原』『原山』などに広がりました。また、高山ダムの建設により山の中腹以上に茶園を移した南山城村『田山』『高尾』では気候を考慮し、山頂から中腹にかけ天から落ち込むような珍しい縦畝模様の茶畑が広がり、その中に茶農家が点在する独特の景観を形作っています。

和束町石寺の山なり茶園
和束町石寺の山なり茶園

宇治茶、お茶文化の継承への取組

このようにお茶関連の歴史と文化、景観に恵まれたこの地域では、その価値の再認識や継承に努めています。京都府では、伝統的な煎茶手揉み法『宇治茶手もみ製茶技術』を指定無形民俗文化財とし、保存を図っています。立春から88日目に摘んだ茶は上等で、飲むと長生きすると言われる伝承を守るため、今も「宇治新茶・八十八夜茶摘みの集い」が行われています。茶家では、八十八夜の頃に摘んだ新茶を茶壺に入れ、冷暗所で夏を過ごさせ、熟成したうまみの出る秋に茶壺から茶葉を出し石臼でひいて飲むこととされていました。その風習を今に受け継ぐため、毎年10月には宇治茶まつりを催し、茶祖に献茶する『茶壺口切りの儀』、使い古した茶筅の供養をする『茶筅塚供養』が営まれ、多くの人が訪れる。献茶には、豊臣秀吉の故事に倣って『宇治橋』の中程の『三の間』から『宇治神社』の宮司により汲み上げられた「名水」が用いられ、江戸時代の衣装をつけた行列により儀式会場の『興聖寺』に運ばれている。

名水汲み上げの儀
名水汲み上げの儀

また、山城の各地では鎌倉時代から行われた伝統ある遊興「茶香服(茶の飲み当て遊び)」や茶摘み・茶揉み体験を楽しみながら受け継いでおり、茶葉は昔ながらの茶団子に加え、洋風のスイーツづくりにも工夫され、多くの人が舌鼓をうっています。

加えて、京都府では1901年以来、茶業を専らとする高等学校を設立し、人材育成に努めるとともに、1914年には、茶業の研究機関を設け、製茶機械や覆下栽培、品種改良、茶の旨み成分(テアニン)の発見など茶業の新しい技術。文化の創造に取り組んでいます。